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日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(21) たけもとのぶひろ【第43回】– 月刊極北


たけもとのぶひろ(第43回)– 月刊極北

日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(21)

今月のラッキー

今月のラッキー

■「集団的自衛権行使容認」――自衛隊員はどう受けとめたか?
 これまでぼくらは、閣議決定「集団的自衛権行使容認=海外派兵容認」がはらむ諸問題について考えてきました。今回は、この閣議決定の影響をもろに受けざるをえない直接の当事者、つまり自衛隊員について、彼らはこの閣議決定をどう思っているのか、決定を踏まえてどうするつもりなのか、というようなことを調べてみたいと思います。

 新聞報道を拾い読むと、現職の自衛官はたとえばこんな具合にその感想を述べています。
 「国民が選んだ政権が決めたこと」「黙々と任務をこなすだけ」「上の決定に個人的意見を介さずに従う」等々と。
 つまり、時の政府の決定である、お上の命令である、決定・命令には黙って従う、自分の個人的な意見がどうあれ関係ない、ということです。

 二つとない自分の命を、近い将来、奪うことになるかもしれない閣議決定です。この決定とそれにもとづく出撃命令によって、自分の死の蓋然性がいちだんと高まっているわけでしょ。そのときに、死ぬかもしれない当の本人が、自分の意見は関係ない、命令に従って行動するのみ、と言い切っているわけですよね。

 しかも、報道関係者がこの種のことを、また別の自衛隊員にインタビューしたとしても、10人に聞いたとしら10人全員が、同様の答えをすると思うのです。優等生の模範解答みたいな、紋切形の挨拶みたいな――判で押したような答え、まるで他人事(ひとごと)です。しかし、それも無理からんなぁ、と察せられるのは、報道という以上、そこが公の場であるからでしょう。

 公の場では、自分を見ている他人の目というものがあります。そして本当の自分とは別に、その他人の目に映っている自分というものがあります。公の場で喋るときは、他人の目のなかの自分になって喋るしかありません。だとすると、自分の喋る言葉が、他人事を喋っているように聞こえてしまっても仕方がないのではないでしょうか。
 そのようなタテマエめいた言葉とは別に、口には出せないホンネみたいなものが残るでしょう。不安も疑問もあるし、意見だってあるにちがいありません。ただ、あるとしても、それを誰に向かってどの面下げて語ればよいのか、語れば聞いてくれるのか、聞いてもらってどうしようと言うのか、というのが彼らの気持ちかもしれません。今さら聞いてもらっても詮ないことだ、と。

 何十年ものあいだ自衛官として勤務し今は退官しておられる方がおられます。元陸将・元カンボジアPKO施設大隊長の渡辺隆さんです。閣議決定の少し前、彼は朝日新聞のインタ
ビューに応じています(2014.6.25 朝日新聞・オピニオン欄、聞き手・刀称館正明)。
 すでに退官の身分でもあることから、現役の自衛隊員になり代わってその気持ちを弁じても許されるのではないか――そう思われたのではないでしょうか。

 「個別的であろうと集団的であろうと自衛権に基づく行動であれば、たとえ日本の領域外であっても自衛隊法に基づく防衛出動命令なので拒否はできません。自衛官はひとたび命令されれば動きます。
 自衛隊がなぜ戦うのか、そのための厳しい訓練を続けているか、ご存知ですか。我々は戦いたいから戦うのではなく、相手が憎いから戦うわけでもありません。自分の背後にいる人たちのことを考えるからです。
 もしかしたら、任務遂行の過程で自分は死ぬかもしれない。その死が国民みんなから「よくやった」と言われるものでなければ、とてもやっていられないですね。自衛官は国と国民と政府を信じています。信じなければ、命をかける仕事などできません。」(一部中略)

 渡辺さんの気持ちはよくわかるのですが、この論理でいくと、自衛官は、国家・国民が “自分たちのことをわかってくれている” という、その一事を信じるからこそ、死ぬこともありの戦争に行くのであって、それを信じることができなければ出撃できない、ということになります。逆に言うと、自衛隊員が命令に応じて出撃するのは、国民の理解なり支持なりがあらかじめ約束されているからだ、ということにならざるをえません。

 そうだとすると、自衛隊員の「死」と国民の「信」とが、あたかも “等価交換” されているように聞こえて、何かひっかかるものを感じるというか、ある種の違和感をぬぐうことができません。いったん戦争と決まって、自分が死ぬかもしれない戦争に出撃せよとの命令がくだされるとします。
 そういう極限状況になると、国家とか国民とかの信頼があろうがなかろうが、そんなことはどうでもよくなって、自分はみんなのために死ぬのだ、と自分の犠牲を決意する以外に、自衛隊員の選択肢はないのが現実ではないでしょうか。

 そうなるとやっぱしというか、あるいはというか、冒頭の公式発言みたいなものの言い方――単なるタテマエなり他人事(ひとごと)くらいにしか聞こえない言葉――をもって、自身のホンネとするしかない。そういうことなのかもしれません。
 だとすると、ぼくとしては得心がいかないです。やはり筋が通らないことを、ごり押しに押し通されているというか。