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日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(20) たけもとのぶひろ【第42回】– 月刊極北


たけもとのぶひろ(第42回)– 月刊極北

日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(20)

今月のラッキー

今月のラッキー

■自衛隊の海外派兵――安倍の説明責任は?
 集団的自衛権の行使容認を閣議決定した安倍内閣は、憲法9条を棚上げにし、米国の要請に応えて、世界のさまざまな紛争に軍事介入することになるでしょう。このままでは、自衛隊員への出撃命令を避けることはできそうにありません。
 安倍曰く。「自衛隊の最高指揮官である私が、自衛隊員の安全について最終的な責任を負っている」と。安全について責任を負っているとは、生命の危険について、死について責任を負っていることを意味します。

 まず、日本が他国の攻撃を受けた場合を考えてみましょう。自衛隊員は日本および日本国民の先頭に立って敵と戦わなければならないし、必ず戦うでしょう。その戦いの決断は、法的には「個別的自衛権」の発動ということでしょうが、議論するまでもなく、だれもが納得するし、支持するにちがいありません。敵国の攻撃に対して自国を防衛するのは、国家・国民の、いわば先験的な自然権みたいなものですしね。

 しかし、もし仮に、安倍が「集団的自衛権」の行使を決断し、自衛隊員に対して「海外への出撃命令」を発するとなれば、話はまるで違ってきて、説明を聞かなければなりませんし、議論する必要が出てきます。
 自衛隊員は、どうして、死ぬ危険を冒してまで「海外への出撃命令」に従わなければならないのか、最高指揮官の安倍はそのわけを説明する義務があります。しかし、安倍は国会でも記者会見でも答えようとしませんでした。

 安倍が言い立てた “答えらしきもの” は、事例というか例証というか、要するに「例=たとえ」ばかりでした。しかし安倍首相が、海外派兵を命令するのは、例えばAのような場合だとか、Bのような場合だとか、というふうに、いくら “事例” をあげてその正当性 を主張しても、事例は他にも無限にあるわけですからね。事例は答えになりません。
 安倍式の、このようなあれこれあげつらう論法では、海外派兵そのものの正当性を明らかにすることはできません。海外派兵の正当性をわかってもらおうと思えば、なによりもまず問われるのは、その正しさを正面から説明して納得してもらう気構えだと思うのです。

 自国防衛戦争とちがって海外派兵となると、重大な説明責任が発生します。紛争が起こって日本がその一方に加担するわけですから、最高指揮官の安倍は、その集団的自衛権の発動について、なぜ X国の兵士を助けるためにY国の兵士を殺さなければならないのか、あるいは第三国たる日本の自衛隊員がどうしてX国のために死ななければならないのか、納得が得られるまで説明する義務があります。安倍は説明責任を果たすことができるでしょうか。

 もっとも安倍は、みずからがその最高指揮官を務める自衛隊の隊員の生き死にについて、一度聞いたら忘れることができないような “啖呵” を切っています。
 言わんとするところはこうです。 “米軍の兵士が血を流しているのに、日本の自衛隊員は血を流していない。憲法のおかげで、死を免れている。自衛隊員は血を流さないでよいのか、生きていてよいのか” と。
 要するに、自衛隊員は米国のために死ななければならない、ということです。一人でも多くの米国人兵士が死なないで済むように、彼らの身代わりになって一人でも多くの日本人の自衛隊員が死ななければならない、ということです。

 なんやて?  と思うでしょ。だって、自衛隊員は「我が国の平和と独立を守る」と宣誓したうえで入隊しており、国とかわしている約束(契約)の前提は、まさしく「日本および日本国民の防衛」ということであって、それ以外ではありえないのですから。
 日本の自衛隊員が「米国および米兵の防衛」に当たらなければならないなんて、いったい憲法のどこに書いてあるのでしょうか。この度の閣議決定(解釈改憲=集団的自衛権行使容認)は、明々白々たる憲法違反です。安倍の憲法解釈は見当違いというものです。

 このように追いつめると、安倍はどうするか。居直るしかありません。米国の国益は日本の国益である、日本の国益を守るためには米国の国益を守らなければならない、と。
 「解釈改憲=集団的自衛権行使容認」という政治決断は、このような「米国の国益=日本の国益」という利害関係を前提に置いたとき、はじめて得心がいくのではないでしょうか。

 しかし、こんな馬鹿げた話が許されるはずがありません。 national interest は national egoismと紙一重の差しかありません。日本と米国が「interest→egoism」を共有する間柄であるとすれば、日本と米国はもはやnation の間柄ではありますまい。主権国家の範畴では語ることができない、ということです。
equal partner が聞いて呆れます。