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日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(19) たけもとのぶひろ【第41回】– 月刊極北


たけもとのぶひろ(第41回)– 月刊極北

日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(19)

今月のラッキー

今月のラッキー

■「解釈変更」か「解釈改憲」か ?
 すでに繰り返し論じてきたように、「武力行使の新3要件」策定の目的は、集団的自衛権の行使および集団安全保障措置への参加を容認すること、つまり海外での武力行使を容認することです。憲法9条は、しかし、海外での武力行使を禁じています。したがって、7月1日の閣議決定「武力行使の新3要件」は、憲法違反です。仮にこれをごり押しするとなれば、先般の閣議決定は、「解釈」という名の屁理屈をこねくり回すことによって、“現行憲法を別の憲法に変える” ことを「たくらむ」「改憲」策動の開始を告げるものにほかなりません。いわゆる「解釈改憲」です。

 しかし、安倍は「解釈改憲」の「たくらみ」を決して認めません。「解釈改憲というと、事実上改憲したことと同じことにしようという『たくらみ』のように聞こえる」からだそうです。早い話、人聞きが悪い、というわけです。そうは言っても、実際に人聞きの悪いことをしているわけでしょう。集団的自衛権の行使について、憲法は容認しないと否定しているのに、閣議決定の「新3要件」は容認する、と肯定しています。憲法の規範・基準・原理原則を真反対のものに変えてしまっているのですよ。

 にもかかわらず、安倍たちは、現行憲法の “解釈を変えるだけだ” と見苦しい言い訳をくり返すばかりです。いわゆる「解釈変更」に過ぎない、と。「解釈改憲ということは全く考えていない。解釈の変更ということはあり得る」と。これを強弁と言わずして何をもって強弁と言えばよいのでしょうか。念のために「強弁」を新明解国語辞典で調べてみました。「筋の通らない事をへりくつをつけて正当化しようとすること」とあります。

 「武力行使の新3要件」を閣議決定した安部は、実際にはどういうことを言っているのでしょうか? たとえば、ということで幾つか挙げておきます。
 「現行の憲法解釈の基本的考え方は変わらない。」「平和国家としての日本の歩みはこれからも変わることはない。」「戦争する国になることは断じてない。」「専守防衛は不変。」「海外派兵は一般に許されないという原則は全く変わらない。」「自衛隊がかつての湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことはこれからも決してない。」「外国を守るために、日本が戦争に巻き込まれるという誤解があるが、ありえない。」「外国の防衛を目的とする武力行使は今後とも行わない。」「今回の新3要件も、今までの3要件と基本的な考え方はほとんど同じと言ってよく、表現もほとんど変わっていない。」「従って、憲法の規範性を何ら変更するものではなく、新3要件は憲法上の明確な歯止めとなっている。」等々です。

 呆れるなぁ! 憲法解釈の基本は変えていない、平和国家の歩みは変わらない、専守防衛は変わらない、海外派兵禁止の原則は変わらない、「武力行使の新3要件」は従来の「自衛権発動の3要件」とほとんど変わらない、などと言っているでしょ? シラを切っているのか、あるいは “ウソも百回つけばホントになる” という例の俚諺を地で行っているのか、いずれにしろ、国民をナメています。

 白を黒と言いくるめるとは、まさにこのやり方です。彼らはこう主張します。①「解釈変更」といっても「ほんの一部の変更」であり「解釈の再整理」にすぎない、②それは憲法解釈の本質に及ぶ変更ではない、③それが証拠に、「憲法解釈としての論理的整合性、法的安定性を維持している」、と。
 しかし、今般は従来の憲法解釈と真逆の解釈に変更しています。なので、二つの解釈の間で、「論理の整合性」とか「法理の継承」を実現しようとしても、実現のしようがありません。また彼らは、変更の事実を必ずしも認めないくらいですから、いわんや変更の理由ないし意図を国民の前に明示しかつ理解を求めるなんて、できる相談ではありません。

 こういう「彼らが解釈する」限りでの憲法にたいして、国民は信を置くことができるでしょうか? もし仮に、信を置くことができないとします。そのときは、憲法のみならず法そのものに対する信頼が揺らぐときです。確実なものが必ずしも確実でなくなるとき、「法秩序の安定」は根底から崩れかねないのではないでしょうか。

 「集団的自衛権行使容認」の「閣議決定」が「憲法解釈としての論理的整合性、法的安定性を維持している」というのは、したがって、真っ赤な大ウソです。
 ウソを承知の強弁は何ゆえでしょうか? 「当面は」憲法改正を諦めて、便宜的に次善の策として「解釈改憲」の道を選択するという――この「たくらみ」を見抜かれないように隠蔽もしくは瞞着する、というよりほかに、考えることができるでしょうか。実はこの「たくらみ」はとっくの昔にバレているとはいえ、です。

 以上は安倍の「解釈変更=解釈改憲」論を批判したものですが、これとの関連で、竹内行夫元外務省事務次官の朝日新聞批判の議論を紹介しておきます(議論の相手をしたのは蔵前勝久記者 2014.7.20)。
 竹内は「集団的自衛権」に関する国際法上の学説が二つあるとして、以下のように説明しています。「一つは、自国が武力攻撃を受けていないが、他国が受けた場合にその他国を守るための権利とみる「他国防衛説」。もう一つは、他国が攻撃された時、その国との連帯関係を踏まえて自国への攻撃と同じことだと認識し、武力攻撃に参加する考え方で、「自国防衛説」と呼ばれます」と。

 二つの学説を前提にした竹内の議論は、おおよそ以下の通りです。――①従来の集団的自衛権の考え方は「他国」防衛説に立っていたから、憲法上の制約があって、それの行使容認はできなかった。「集団的自衛権=他国防衛権」の行使容認には「憲法改正」が前提となる。②しかし「自国防衛説」は、他国への攻撃を自国への攻撃と同一であると見なして武力攻撃に参加するのであるから、集団的自衛権の行使容認は「許される範囲での解釈変更」であって「解釈改憲」ではない。③他国に対する攻撃であっても、自国に対する攻撃であると見なせば(認識すれば)、武力行使は容認されて然るべきだ。

日本は攻撃されていないのに攻撃されたと「みなす」のですかぁ? とすると、相手国は日本を攻撃していないのに攻撃したことになるわけですね? 一方、日本は攻撃されていなくても攻撃されたのと同じとみなすのだから、他国を守るためというよりもむしろ、自国を守るために、武力を行使する権利があるのだ、というふうな、そういうリクツですよね? “みなし防衛論” とでもいうべきこの論法は、単なる “過剰反応” なんかではなく、大国による軍事介入の正当化をたくらむものではないでしょうか。

  “問うに落ちず語るに落ちる“ 話というのは、こういうのを言うのだなぁ、と妙に感心させられるやりとりを紹介して終わりにします。
【蔵前記者の問い】閣議決定後の国会審議で、首相は日米同盟を維持するために集団的自衛権を発動する可能性を示唆した。「米国の要請を断れば日米同盟が壊れる」と、行使することもあるのでは?
【竹内の答え】(冒頭8行省略)これらの要件(=武力行使の3要件)が満たされないのに米国からの圧力で参戦するようなことはあり得ない。もし米国が日本の憲法や法秩序を根底から覆すような要請をしてきたら、「日本は憲法上できない」と胸を張って断ればいいだけ。ただし、米国は日本にとって安保条約の絆で結ばれた、かけがえのない同盟国。当然、新要件の下でも他国との関係と同等ではなく、特別に考える必要がある。

 よくもぬけぬけとこういうことが言えるものよ、と書いて終わりにしたいほどですが、念のために注釈を加えておきます。竹内の第1センテンスはただのナンセンスです。「新3要件」は、あらかじめ米国の要請を満たすように作られているのですからね。そのことは、日本政府が上記の閣議決定をするや直ちに、米国上下両院が日本政府の決定に対して全面的支持を表明したこと(=内政干渉)に表われています。第2センテンスは、単なる虚勢にすぎず、コメントに値しません。最後の第3センテンス、「ただし」以降のこの2行は、単刀直入で実にわかりやすい。問わず語りに、ついホンネが出てしまっています。
 この程度の “米国の飼い犬みたいな奴” が、外務省の役人をやっているのですよね。