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日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(16) たけもとのぶひろ【第38回】– 月刊極北

たけもとのぶひろ(第38回)– 月刊極北

日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(16)

今月のラッキー

今月のラッキー

 前回の終わりに書きました。安倍たちにとって「国民の命を守る」とは、実は「国民に国の命令を守らせる」ことです、と。それ以外のものではありません。助けなくていいのか、と訴えているのは、「お父さんやお母さんやおじいさんやおばあさん、子どもたち」の命ではなくて、国家の命令、いわば “国の命” です。「日本という国が存亡の危機に瀕しているというのに、国の命を助けなくていいのか」と、一国の首相がぼくら国民を脅しているのです。

 何よりもまず大事なのは「国」であって、「国民」ではありません。ましてや「個人」ではありません。この点では、安倍内閣の下村文部科学相も同じです。氏は、衆院文部科学委員会(2014.4.25)における答弁で、教育勅語の教育理念を評価し、「我が国が危機にあった時、みんなで国を守っていこう。そういう姿勢はある意味では当たり前の話」と述べたといいます。下村はこう言っているのです。
 “ いざというときに「国中の全ての者がみな心一つにして」守るのは、ひとりひとりの命とか、みんなの幸せとか、そういう次元のものではない。「国」である。まず「国」であらねばならない。「みんなで国を守る」、当たり前の話だろう ” と。

 ここにいう「国」とか「みんな」とか「ひとりひとり」というのは、それぞれ別のものでしょう? 国家は一つのことです。国民も一つのことです。個人もまた別の一つのことです、よね? 存在自体、それぞれが次元を異にする別のものですから、それぞれが担うべき役割も違えば、それぞれに帰すべき義務も責任も違ってきます。
 なのに、「国家=国民=個人」とやってしまって、いいのでしょうか。これでは、なにもかもごっちゃになって、わからなくなってしまうのではないでしょうか。

 というか、なにもかもをいったんばらばらにして、ごちゃごちゃにしてしまう気なのですね、きっと。そうすれば、それぞれの違い、区別だてはないに等しいものにできるわけで、むしろそれこそが彼らの狙いなのかもしれません。
 なぜって、強い弱いで言えば、国家>国民>個人の順番でしょう?  あるいは 国家=国民>個人 となるのかもしれません。このばあい、弱い「個人」を無視し、存在しないものと考えれば、生き残るのは強い「国家=国民」だけですよね。
 そうだとすると、彼らは確信しているにちがいありません。 “ 戦後体制のもとで傷つけられてきた「国家」の威信を回復して、「国家=国民」の時代にしなければならない ” と。

 安倍首相に近い憲法学者とされる西修・駒沢大学名誉教授は、おおっぴらに言い放っています。「今や国民が国家権力と一緒になって、国をどう形成していくかを考えていかなければならない」と。
 西のこの言説は、一国の権力構造を無視しています。国民は、そう簡単には「国家権力と一緒に」なることができません。そう易々と一緒になることは許されない――それが、主権者・国民の立場です。国民は国家権力に対して、それを監視し批判する義務および責任があります。それどころか、事と次第によっては権力の改造を実行するのも、国民の義務・責任でなければならない――そういう話ではないでしょうか。
 国民が権力をコントロールするのであって、逆に権力が国民を――安倍の大好きな――アンダー・コントロールするものではありません。国民が国家を動かすのであって、国家が国民を操るのではありません。
 国民が、国民のために、国民を統治するとは、そういうことではないでしょうか。言葉を換えていえば、国民がその主権を行使するとはそういうことだと思うのです。であるからこそ、国民は、国家権力からの自由を担保されていなければならないのだと思います。

 このように考えてくると、国民と国家権力とは、向かいあって立つ・対面する・対峙するのが正常だ、ということにならざるをえないでしょう。
 なのに、西は「国民が国家権力と一緒になって」などと、暴言を吐いています。なぜ暴言か、ですって? 理由は誰にでもわかります。「一緒になって」しまえば、同じ側に立つわけだから、向かいあって立つことができなくなるでしょう。向かいあって立つことのできない国民は、権力を監視し批判することができません。それでは、自らの義務・責任を果たすことができないではないですか。場合によっては権力を改造する義務・責任まで負わされているのですよ。「一緒になって」できる相談かどうか、考えたらわかるでしょう。

 それにしても、「最高の責任者は私だ」とはなぁ! 
 発言者が安倍だけに、呆れてばかりいられません。安倍首相は、国家権力の “私物化” “乗っ取り” を宣言することによって、「強い権力者・安倍晋三」と「強い国家・日本」とが二重映しになるように、効果を狙っているのですから。

 たとえば5月15日の記者会見でも、「日本が再び戦争をする国になるといった誤解があります。しかし、そんなことは断じてあり得ない」などと大言壮語しています。
 自分に対する批判は単なる誤解にすぎないと切り捨てる。批判には断じて答えない。「そんなことは断じてあり得ない」と断定する。その政治的意図は秘かに隠して開示しない。
 これが彼のやり方です。じつは秘密保護法のときも、「(あれこれの)懸念の声もいただきました。しかし、そのようなことは断じてあり得ない」と同じく豪語していました。
 危ないなぁ、ホンマに。