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日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(13) たけもとのぶひろ【第35回】– 月刊極北

たけもとのぶひろ(第35回)– 月刊極北

今月のラッキー

今月のラッキー

日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(13)

「集団的自衛権行使容認」は至上命令
 引き続き「集団的自衛権」です。この事案に対する安倍内閣のもっていき方は、まさに驚きの連続です。ここまでやるか、という。

 すでに触れましたが国連憲章は、主権国家に対して個別的自衛権とともに集団的自衛権を認めています。個別かつ集団的自衛権を行使できるのが「普通の」「主権国家」である、と。しかし、旧枢軸国・好戦国・敗戦国の日本にあっては、自衛隊の存在さえ合憲か違憲かが争われたくらいですから、そもそも政府自身、自国防衛の権利が行使できることになっている、その「個別的自衛権」についても、その権利を現実に行使するなどという話は、ピンと来なかったのではないでしょうか。だって、そんなこと考える必要なんて、どこにもなかったのですから。

 戦後冷戦構造のもとで我が日本は、米国の保護国――この点については後に詳しくみるつもりです――として囲われていました。つまり、米国の間接統治下にあったわけで、一人前の主権国家でさえなかったのです。その日本が、宗主国・米国の間接統治権をさしおいて、独自に、形だけは有していることになっている、架空の個別的自衛権を行使する場面が現実にやってくるなんて、バカみたいな話を、いったい誰が本気にするでしょうか。

 だから今迄は、個別的自衛権という言葉も国連憲章の中にとどまっていて、世の中ではさほど流通してこなかったのではないでしょうか。ところが、いまや世界はその様相を一変させつつあります。 “世界の警察官” を誇ってきた米国の覇権が衰えつつある一方、それにとって代わる新興の挑戦国として中国が名乗りを上げている――これが、世界の覇権をめぐる今日的構図だと言われています。
 米国および中国はともに、この構図を前提にして世界戦略を構想し、その軍事力・抑止力を構築しています。その力関係が地球の明日を決めかねない危機の現在、宗主国・米国はその世界戦略・軍事戦略のなかで、保護国・日本にどのような位置を与えようとしているのでしょうか。

 「集団的自衛権」を行使せよ、というのがその答えです。「日本の安全を保障する」には、日本一国の安全を保障する「個別的自衛権=自国防衛権」の行使だけでは決定的に不十分であって、世界の安全保障のための「集団的自衛権=他国防衛権」の行使をも視野に入れた軍事行動を考えていかないと、日本一国といえども、その「安全保障の必要かつ十分条件」を満たすことはできない、というわけです。

 ここに言う「世界の安全保障」とは、断る迄もありますまい、「米国の安全を保障する・世界のための軍事戦略」のことです。要するに、保護国・日本は、その軍事力(自衛隊)を宗主国・米国の「世界軍事戦略」のために役立てる以外に、生き延びる道はないのだ――と、米国は日本政府に圧力をかけているものと察せられます。そう理解するよりほかに、辻褄を合わせる手立てがあるでしょうか。

 しかし、それがいかに宗主国・米国の言い分であるとしても、戦争=武力行使による国際紛争の解決――解決という名の介入・参戦――は、集団的自衛権(=他国防衛権)の行使そのものですから、我が憲法が許しません。
 世論の拒否感情にしたって、まだまだあなどれないものがあります。そうした世論の動きを察知したのでしょう、安倍内閣は論争の土俵そのものを少しずらせて、別のところに設定してしまいます。土俵の争いは、もはや “個別的自衛権か集団的自衛権か” ではない。集団的自衛権の「限定的行使」か「全面的行使」か、それこそが焦眉の問題なのだ、と。そうして、新しくもうけたその土俵では、集団的自衛権の行使それ自体はいつのまにか容認したことになっているのです。行使容認を前提にしたうえで、その「行使」を、憲法で許される範囲の「限定的行使」とするか、それとも「全面的行使」とするか――それが問題なのだ、というわけです。

 集団的自衛権そのものを許していない憲法の、いったいどこに、憲法で許されるそれの「限定的行使」なるものが書いてあるのでしょうか。これはもう “罠” と言うしかありません。
 国民を罠にかけて騙してでも、限定的であろうと何であろうと構わない、集団的自衛権の行使容認をかちとりさえすれば、こっちのものだ、と言わんばかりの振る舞いです。

 事実、この種の権利は、いったんその行使を容認したとなると、いきおいその対象を拡大せずにはおかない傾向があります。やろうとしているのは戦争なのです。相手、敵国があります。敵国をコントロールできますか。安倍首相は、オリンピック招致をかちとるための “殺し文句” に、under control という言葉を使いました。原発は制御されている、と。それが見え透いた大法螺だったことは、世界周知の事実です。
 原発と同じで戦争も、制御できません。つまり、集団的自衛権の行使について、ある範囲を区切って、その範囲を越えないように限定するというようなことが、敵国と何でもありの戦争をしているばあい、いったい、どのようにすればできるのでしょうか。

 にもかかわらず、集団的自衛権の行使容認は彼らにとって至上命令なのでありましょう。であるからこそ、見苦しいまでの小細工を思いつく向きも出てくるのでしょう。
 「集団的自衛権の行使についての報道各社世論調査結果」(2014年5月後半~6月1日)にみられる一部新聞社のやり口が、たとえばそれです。姑息なことよのぉ、と思わずため息が出ました。
 朝日新聞と日経新聞は、集団的自衛権の行使について賛成か反対か二者択一で問うて、「朝日」は賛成29%反対55%、「日経」は賛成39%反対47%、の回答を得ています。他方、行使について全面的行使賛成、必要最小限行使、行使反対の三者択一で問うたのが読賣新聞と産経新聞です。「読賣」が得た回答は、それぞれ順番に、11% 60% 24%です。「産経」は10.5% 59.4% 28.1%です。
 二者択一のばあい行使反対が多数派なのに、三者択一で問うと必要最小限度行使派が60%の最大多数派で、これに全面的行使賛成派を加えると70%の圧倒的多数派となります。
 安倍内閣はこの三者択一の数字が世論の動向だとし、国民の圧倒的多数が集団的自衛権の行使を支持していると言い張るでしょう。

 しかし、集団的自衛権の必要最小限度の行使を是としたおよそ6割の人たちは、その、必要最小限度なる量的判断が可能であるとでも思っているのでしょうか。どこ迄が必要最低限度なのか、誰にもわかりません。その量的判断は、それそのものが成立しません。
 上記、集団的自衛権「必要最小限度行使」賛成派の6割の人たちは、実は集団的自衛権の行使そのものが何のことかわからなかったのではないでしょうか。だから、それについて賛否の判断ができない。その、どっちつかずの気持をまるで見透かしたようにして待ち構えていたのが、「必要最小限度行使」という選択肢だったのでしょう。

 問いかけの内容がわからないときは、明示的なイエス・ノーの回答は躊躇します。責任が持てないから、有耶無耶なままにしておきたいのでしょう。事柄の重大さを考えると、有耶無耶な責任逃れが許されないことはもちろんです。
 しかしながら、安倍や石破など自公内閣は、彼らの無知無責任をよいことに、我が平和憲法を解体し、戦時国家の構築を進めています。

 安倍たちは、世界の人びとの目の前で、世界の人びとを巻き添えにしながら、かつてと同じような底の見え透いた、バカバカしい趣向の茶番狂言を “一度ならず二度までも” やって見てもらわないと気が済まないのでしょうか。