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日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(10) たけもとのぶひろ【第32回】– 月刊極北

たけもとのぶひろ(第32回)– 月刊極北

今月のラッキー

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日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(10)

 マッカーサーの9条原案は、すべての自衛権を許さないとしてきました。しかし最終的に制定をみた9条は、「国際紛争を解決する手段として」の戦争・武力威嚇・武力行使については、「永久にこれを放棄する」とし、戦力についても「国際紛争を解決する手段として」のそれは「保持しない」としました。
 同じことを国連憲章51条の概念でもって言い直すと、どうなるか。
 日本も国連加盟国である以上「個別的又は集団的自衛の固有の権利」を有しています。しかしこのうち「集団的自衛権」(=他国防衛戦争)については、日本は権利を有するといえどもその権利を行使することができません。9条1項が「他国防衛のための戦争」を放棄しているし、9条2項が「他国防衛のための戦力装備」(=攻撃的兵器)を不保持としているからです。

 日本は他の「普通の国」と違って、国権の最後の手段たる戦争に訴える道をあらかじめみずからに禁じています。海外派兵とか他国防衛戦争は、許されません。許されているのは、自国防衛戦争のみです。国連憲章51条でいえば、その権利行使が許されているのは「個別的自衛権」に限ってのことです。自国を防衛するためにどうしてもやらざるをえない戦争とそのために必要な最低限の戦力――許されているのは、これだけです。「集団的自衛権」の行使はいわば “封印” されているのです。

 戦争そのものを自制する、戦力保持を自制する、自制を国民の規範とする――9条のこの “自制の規範” がもしかりに失われていたとしたら、日本はどうなっていたでしょうか。不戦国家・日本の平和は、持ち堪えることができなかったにちがいありません。
“9条があってこその日本の平和” ということ、それが嘘も隠しもない真実であるということ。この一点に関するかぎり――これまでのところは――自民党内閣といえども十二分に承知してきたのでした。彼らの政府見解の代表的な例をみておきましょう。

• 稲葉誠一衆議院議員提出の「憲法、国際法と集団的自衛権」に関する質問に対する政府
答弁書(鈴木内閣 昭和56年5月29日提出)から。
 「我が国が、国際法上このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するために必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている。なお、我が国は、自衛権の行使に当たっては我が国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することを旨としているのであるから、集団的自衛権の行使が憲法上許されないことによって不利益が生じるというようなものではない。」

• 土井たか子衆議院議員提出の「小泉内閣発足にあたって国政の基本政策」に関する質問
に対する政府答弁書(小泉内閣 平成13年5月8日提出)から。
 「(上記①の最初の4行と同文の答弁があり、その後以下の答弁となる)憲法は我が国の法秩序の根幹であり、特に憲法第九条については過去50年余にわたる国会での議論の積み重ねがあるので、その解釈の変更については十分に慎重でなければならないと考える。」

 これらの例に限らず歴代の内閣は、 “集団的自衛権は所持するも行使せず” との9条解釈を堅持してきました。ところが安倍首相は、誰が何と言おうと、歴史の事実が何であろうと、何が何でも、「集団的自衛権の行使」を正当化しよう・既成事実化しようと必死になっています。安倍に言わせれば、 “権利を持っているのに、持っているその権利を行使できないなんておかしいではないか、それではまるで財産の権利は持っていてもそれを使うことができない禁治産者みたいなものではないか” ということです。

 「持っている権利を行使できない」というのは一つの事実です。いっぽう、「その権利を行使できないなんておかしい・理不尽である・不当である」というのは、その事実についての価値判断です。また、「その権利を行使できないのはかえって有難い、理にかなっている、正当だ」というのも、同じその事実についての価値判断です。まず事実があって、それを否定あるいは肯定する価値判断が生まれます。
出発点は価値判断ではなくて、事実でなければなりません。事実を目の前にすえて、これを直視しなければ、何事も始まらないということです。

 安倍首相の価値観・世界観からすれば、「集団的自衛権の行使」の封印は「禁治産者たる身分」の宣告に等しく、屈辱の極みなのでありましょう。彼の否定の情熱は、もはや価値判断ですらなく、単なる執念とか情念とかの領域に属しているのではないでしょうか。こうなるともう事実が何であったか、何であるか、といったことは、どこかへ吹っ飛んでしまっています。

 事実はこうです。日本はかつて禁治産者同然の国とみなされてきました。しかしまた、そのことによって日本は、集団的自衛権の行使が当たり前の「普通の国」の次元をはるかに超える、「普通の国」以上の国としてやってきました。そして、いまなお「普通の国」以上の国として存在しています。
 安倍首相は、恥ずべき寝言をいい加減にして、事実の重さを認めることから始めたほうがよいと思います。