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日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(9) たけもとのぶひろ【第31回】– 月刊極北

たけもとのぶひろ(第31回)– 月刊極北

今月のラッキー

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日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(9)

 ここで、9条の “原点” とでもいうべき考え方が奈辺にあったか、確かめておきたいと思います。上山前掲書 第三章「不戦国家の防衛構想」から引用します。
 いわゆる “マッカーサー・ノート” のなかの、問題の箇所の紹介と、それについての上山先生のコメントです。
――マッカーサー元帥は、占領軍司令部の民政局に対して憲法草案を起草せしめるにあたって三つの根本原則の一つとしてつぎのような非武装化の原則を示したが、この原則こそ第九条の原型にほかならなかった。
 「国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する。日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。いかなる交戦者の権利も日本軍には決して与えられない。」
 ここには、自衛戦争をふくむいっさいの戦争の放棄といっさいの軍備の禁止が、誤解もしくは曲解の余地なく、明確に指示されている。こうした日本非武装化の原則は、マッカーサー元帥の個人的な思いつきから生まれたものではなく、アメリカないし連合諸国の対日占領政策の基本方針から導き出されたものであった。(上山前掲書 169,170)

 9条の原型(マッカーサー・ノート)における、日本の戦争放棄は、徹底しています。「紛争解決のための手段としての戦争=集団的自衛権を行使する戦争」は、もちろん放棄する。それだけではない。「自己の安全を保持するための手段としての戦争=個別的自衛権=国家たるものが本来そなえている固有の自衛権」、それさえも放棄する。日本人には、自分で自分を守る権利がない。自衛権は許さない。これが、ノート引用部分冒頭の「国家の主権的権利としての戦争を廃棄する」の意味するところです。

 要するに、日本から「国家の主権的権利」を剥奪し、日本を「半主権国家の状態に置いた」ということです。究極の膺懲・制裁です。既述のように、これが9条起草の意図であったことは、動かしがたい歴史の事実です。
 日本は自国の安全・防衛を考えるばあい、この事実を甘んじて受けとめ、国際国家=平和国家への道に活路を求めるしかなかったし、それこそがほんとうは新生日本の希望であったわけです。しかし、それは我々日本側の話です。

 米国側の極東委員会・連合国最高司令官総司令部GHQとしては、話は別です。日本の安全・防衛に関する彼らの考えは、上記のマッカーサー・ノートにある通りです。「日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる」と。この一文だけです。 “それだけでよいではないか、十分だろうが” と切って捨てるも同然の書きっぷりです。ここに示唆されている「崇高な理想」とは、新たに創設された国際政治機構___具体的現実としては国際連合United Nations ___において体現されており、その理想が「いまや世界を動かしつつある」そうですが、彼らは本気でそんなふうに感じていたのでしょうか。

 これもすでに詳論したところですが、彼ら自身 “崇高な理想” の実現を願う気持ちにウソはなかったと思うのです。気持ちとしてはたしかにあったのでありましょう。しかし、現実の国連が誇示する金看板の、その “理想の崇高さ” から受ける印象をありのまま正直に申せば、 “あんたら、本気でこんな綺麗事を言うてるのか!” というものです。

 国連憲章の “前文” から当面必要とする部分に限って、次に示します(中略部分は明記しません、区切りの記号はぼくのものです)。
 「われら連合国の人民は(=枢軸国“好戦国”の人民は除く)、①われらの一生のうち二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、②国際の平和と安全を維持するためにわれらの力を合わせ、③共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを確保するために、国際機構を用いることを決意して、ここに国際連合という国際機関を設ける。」

 ご立派かつ崇高な理想の開陳ではあります。しかし、国連憲章はこの前文を前提としておりながら、その第51条(自衛権)は次のように規定しています。
 「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」(安保理事会に関する注釈は、問題の根本に関係しないので省略します)。
 憲章前文は上記の通り、「国際の平和と安全を維持する」と国連の大目的を掲げています。にもかかわらず、その51条は、「この憲章のいかなる規定も」、したがって前文の規定といえども、「個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」としています。国際平和よりも個別的又は集団的自衛権のほうが優先する、と。

 国連の「崇高なる理想」と言ったってその嘘も隠しもない実相はというと、このざまです。
 個別的又は集団的自衛の権利を国家固有の権利として最優先する国連が、「われらの一生のうち二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い」うんぬんなんて寝言を言うのも、たいがいにしろ、ということです。
 とまれ彼らは、このような国連憲章51条を国際関係のルールとして決定した “後” で、わが憲法9条を起草し決定しており、日本については「国家の主権的権利としての戦争を廃棄する」と ”国連憲章の例外扱い” に処した、ということです。それはそうでしょう、日本は好戦国=枢軸国であって、連合国ではないし、国連憲章が採択されたときのメンバーではないのですからね。
だんだん腹が立ってきました。続きは次回にします。